金子が身体で気付いた事を書いていきます。
   
 
 
 
2008年6月25日
前回刀を作った子は今回は薙刀を作って来ました。
いきいきとした眼で持ってくる様子はとても楽しそうです。
稽古を通して想像力が広がったり、いきいきとしていくことは曇りのない心が育っている証拠だと思いました。

大人になると何かに打ち込んだり心がときめくことが少なくなるといいます。
子供たちの姿を見ているとまっすぐな眼で稽古に臨んでることがよくわかります。
また他の子も立派な刀を作ってきました。
木製ですがよくできています。

薙刀は本を見ながら作ったそうです。
実際扱ってみると稽古できました。

もう一人のほうの刀も稽古で実際に使って稽古させました。
刃は鋭く危険ですが丁寧に扱う稽古ができていたようです。

写真は作った本人です。
 
2008年5月16日
技の上達は何を基準にするかがさまざまです。
最近動いてきたなー・・そう感じるときは心がそこに向かっているときに感じます。心地よいときです。
心が止まるときはやはり動きが身に着くまでにはいきません。

最近子供たちの熱を感じます。
活き活き動いて見えます。
何かに興味楽しみを抱いてるのでしょう。
中には刀に興味を持ち木材などで作ってしまう子もいます。(12歳)

先生!いいのができました!と携帯のメールで写真と作り方を送ってくれました。
以下が彼が送ってくれた文章です。

『先生、新しい刀ができました。溝も掘ってあり、今まで作った中でも本格的だと思います。』

『剣の作り方(今回)
材料
900mmx5mmx20mmの棒x2
木のいた(0.5cm)
(ヒノキ)
アルミテープ
銅テープ
ヤスリ
カナズチ
鉛筆
ボンド
のこぎり
キリ
画鋲』

『作り方
1棒の先端に斜めの印を入れ、印にそって切る(切っ先)
2彫刻刀で溝を入れ、刃の部分をヤスリで削る
3つかの長さを決め印をつける
4二つめの棒から、つかと同じ長さの棒を二つ切り落とす
5つかの部分に切り落とした二つの棒をボンドでつける
6木の板の上につばの形を書き真ん中に剣と同じ幅(20mm)の穴をあける
7銅テープをつばにはり、模様をきめて、テープの上に書く。
8剣にアルミテープをはり、上から鉛筆で溝をなぞる。刃の部分は、カナズチでたたく。
9つばを剣の先端から通してボンドで固定する。
10最後につかに麻ヒモ巻いて、つか頭まできたら、銅テープで麻ヒモを固定する。』

とこんな感じで作るのだそうです。

他にも薙刀も作ったらしいのです。

子供の眼は透明に澄んでいます。
もう大人ですね。

彼たちに負けぬよう真っ直ぐに技が成長していきたい・・。

 
2008年4月12日
今使っている私の木刀は使い始めてから23年余りがたっています。
物持ちがいいなと思います。
特別な木刀ではなく、多く普及されている木刀です。

しかし最近刃の部分が崩れてきています。
他の木刀もあるのですが、ついついそれを使ってしまうのです。
手になじんでいるからか、いうことを聞いてくれます。
長年使ったものはそのもの自体が身体の癖を知っていて使いやすいように動いてくれているようです。
そんなことはないだろ、などと思うかもしれませんが、なんとなくそう感じます。

何かに触れるときの掴みの感覚、これをよく稽古します。
相手の手首を丁寧に掴むのです。
掴み方には数種類あります。
基本は柔らかくです。
文にすればとてもシンプルすぎて事の本筋にはなかなかたどり着けません。
柔らかくといっても数種類あります。
外から見ただけではわかりません。
ですから実際に掴んでもらいその感覚を伝えるしかないのです。

ただ掴むだけの稽古。
これがうまく通った時は掴む側、掴まれる側に隔たりが消え、まるで水と水が混ざり合うような感じになります。

この感覚が身につきますと相手に触れたとき相手の力の出どころや緊張している箇所などが無意識に伝わってきます。

その掴み方で木刀を握るのです。
丁寧に優しく。
木刀は私の身体を知り、私は木刀の芯を感じ、互いに水を交えます。
そんな感覚になったときに私は木刀の一部に、木刀は私の一部になっていくように思います。

触れたものとサッと一体になる、そんな感覚・・・になりたい。

この木刀にはもう少し一緒にいて頂こう・・。
 
2007年8月22日
日々自然とかけ離れた生活を送る私達,どんなに便利な生活を送ろうと身体はいつも疲れに充ちています・・
昔は身体は自然と共にあり暑さ寒さも自然の摂理でした。
今は自分たちの便利さ快適さを求め自然は無視,疲れたときにちょっと山に行き海に遊び・・心を解放させるのです・・
身勝手・・そんな私達の行為に自然が黙っているはずもありません・・・この夏の暑さ・・自然に文句は言えません・・
私達がそうしたのだから・・・。
しかし自然は流れに沿います・・。
どんな事をされても・・時の流れに沿っています・・・こうなる事も全ては時の流れ・・・
海を見てきました・・・海は人が呼吸をするように静かに,時に激しく打ち寄せてい
ました・・。
朝方仲間と海に禊に入りました。
その禊は個を清めると言うより・・・懺悔にも似た感覚がありました・・海に,空に,山に,ただ言葉を発していました・・
元々禊とは自然への懺悔だったのではと・・そんな思いにかられました・・。
剣を抜き空を感じ風に包まれる私達は・・確かに何かを感じていました・・・自然の
声を・・・。
 
2007年6月8日
動きにブレがある。
これは稽古をして常に気にかける事です。
真向一つでも振って見ると,毎回同じようにはいきません。毎回同じようにいかない
じゃダメなのです。毎回を真剣に稽古出きればなんとかなる。そう思っていました。
それでもダメです。
動きの稽古は気をつけていてもおろそかになるばかりです。
動きが動きを超えてはダメです。
出来なければその状態を素直に下手になるほうがまだいいのです。つくろうのがダメな稽古の入り口です。
武之慎君の弟君です。
彼の目です。
この眼になりたいのです。
大人もこれにならなければなりません・・・。
彼が持っているのは,おもちゃの剣です。
稽古にまだ参加はしていませんが摺り足だけはみなさんとやります。
稽古前の礼もやります。
出きる事だけをやります。
素直になる。
大人の素直はなかなか見えません。
心で判断してしまいそうですが,それでは進まないのです。
まず力みを消す。そこから開いていくのです。
真っ直ぐな振り!
ブレない剣。
今を正確に見たいです。
出来ない事も正確に見る。
そういう稽古になっていきたいです。
 
2007年5月28日
長い期間の体調の崩れもようやく抜けて来たのか、なんとか身体の声を聞くことが出来てきました.私は身体は辛くても稽古にその姿を感じられないとよく言われます。
近い者はよく知っているのですが、稽古となると全力を傾けてしまいます。ですから私がどういう状態か最近入った方は分からないでしょう。しかしこういう状態の時の技の切れは自分では健康な時よりも鋭く動きます。さらに気付きも多くあります。身体についてはもちろんですが、その他の感覚的な事まで、全感覚が拓くのです。追い詰められた身体はものすごい力を発揮します。私にとって稽古は命そのものだと思っています。物心ついて自分の生きる道は、身体の表現しかないと思っていました。
自分の存在を自分に問いかける方法は身体の表現しかない。と思っていたのです。小学生くらいのころそう思っていました。
身体の変化は常に安定ということはなく、いつも何かがあります。私の場合、会を発足してから身体の不安が消えた事はありませんでした。だからこそ全存在を賭けて取り組める気がします。でも・・そんな風に見えないでしょ・・(笑)。
この身体の変化を通り新たな技が発見される事は間違いありません。
最近稽古にも新たな息吹が吹いています。
整体のお仕事をされてる方も入ってきました。
とても熱心に稽古されています。
個人稽古会も毎回くる方は、上達も眼に見えてきました。
体調の不調は普段見えない身体の癖も見せてくれます。
技の甘さも目に付きます。
強くなる前に体を崩すことが多いのです。
さて明日の稽古も楽しみです。身体からの声はこれから更新が多くなると思います。そんな予感がしています。

力の抜きが大切といってますが,抜くにはどうしたら抜けるのかということを稽古で伝えないと行けないと思いいろいろと考えていました。
ただ抜けといっても抜けない、どうしたらいいのか・・。
今日は暑い日でした。出かける時に下駄をはいていきました。以前は1年中草履か下駄をはいていました。3年位そうしていました。身体の動きが変わるからです。靴は地面を蹴って歩きますから速度も速くなります。下駄や草履は腰から歩くので速くは歩けません。しかし武術の体移動にはとても良い気がします。下駄や草履をはいてから腰が中心に動くようになりました。そして腰から動くようになると,自ずと上体の力が抜けるのです。
力を抜くという事,その方法のヒントがここにありました。
ですから今日は駅から家まで10分くらいのところを,15分くらいかかりました。
腹で歩けて心地よかったです。たまにはゆっくり歩くのもいいのです。・・・
 
2007年3月23日
子供達もようやく袴をつけ,稽古に励んでいます。剣術もずいぶんと新しい技が生まれ,私自身覚えるのに大変です.木曜稽古会で受けをとってくれている廣瀬さん,居合がずいぶんと形になってきました.また組み太刀の稽古では二人で剣術の型をああでもないこうでもないと,なるべく理にかなった身体運用を心がけて創案しています。廣瀬さんは整体のプロですから身体的な微妙な表現に答えてくれていて心強いです。
ここ数日のうちに新しい技を何本か試みています.なるべく煮詰めてから土曜会等で発表していきたいと思います。
そして,体術ですが,これが時間等の関係で中々深いところまで稽古に行き付いていないのが現状です.剣術の稽古だけで時間が足りなくなってしまいます.もう少し体術にも時間をかけてやっていきたいです。せめて本会の基本的な技,剣の投げ,木の葉落とし,小手返し等は稽古の準備体操の段階で入れていきたいほどです.中々全てというわけには行きません.しかし私自身の中で,稽古に充実感を持って稽古に臨んでいる事は,確かな感覚としてあります.この感覚が、新たな風となって稽古場に吹くように心がけて稽古していきたいと思っています。

2007年1月12日
最近では技を開発すると言う行為がきわめて地味であり,深いものだと痛感しています.昔の人達は本当にすごかったんだなと,いまさらながらに思います。感じ取る能力,体感が、現代人とは全く違ったのでしょう.生ききかたも違う.ですから,今私が気付いていく感覚というのは,今に生きる,身体の使いかたなのだと思います。
これから動きがどう変化していくかがとても楽しみでもあり,深いものになっていくのでしょうか・・・・深いというのは,私にとっては,遠いという意味ですが・・。
剣を合わせる型一つ取っても,全身が働いて剣に力が集約されていくのが,身体で分らないとなりません.ただ腕で振って,振った気になりがちです.技と呼ぶには私の動きなど恐れ多く,(動き)と呼ぶしかありません.地味な稽古はそれでも私の心の中に,勇気と,力を与えているように思います。
技までのぼりつめるには,はたして,あと,どのくらいの道があるのだろう・・。
 
2006年12月10日
新たな抜きに挑戦しています。抜刀する刹那身体を左に転じながら坂抜き、しかもその時に足を差し替えます。かなり難しい技です。しかし稽古に来る方たちの動きも上達しており、私が想像していた以上に身体は動いていました。いつも自分が基準になって稽古していますと、他の方の動きが見えなくなる事があります。もう少し注意を向けて稽古していかないと、みんなが上がってくる速度も増しています。なにより一人稽古が参加者の中でも高まってきており、一週間後に急に上達を見せる者もいるくらいです。

この新しい抜きは、剣の抜き放った位置がかなり今までの抜きより高い位置にあります。これは、腕だけだと上がらないのです。腰を切るように体全体を使わないと剣が下がってしまいます。
この2枚の写真もかなりいいですが、次回もう少し進んでからまた載せたいと思います。

2006年9月7日
居合の動きで、抜刀、納刀、この所作を極める事が、とても大切です。もちろん振る、動作も、大切ですが、まず抜けるか。
稽古の内容がどうしても、派手な所に目がいってしまいます、、おとなしい稽古は、飽きが来てしまいます。そこを我慢して、取り組めると、・・おもしろくなるのですが・・
おもしろくなってくると、身体に元気でます。

先日、稽古前、体調がよくなく、今日は動けるかなーと、心配をしていました。しかし稽古が始まってしまえば見る見るうちに元気を取り戻しました。
これは、よくあることです。お仕事なんかも気合が入ればなんとかできますよね。
でも今回はちょっと、それとは違う気がしました。それは、気合を入れたわけではなく、渋い稽古、抜刀と、納刀を丁寧に稽古しただけです。
これは、その型に、身体を調整する、仕組みがあったのです。
抜刀をするときには、身体を正中線から割って、左腰を意識します。
また、納刀では、右足を差し替え、正中線を保ち、静かに納刀することを、心がけます。
そんな所作が、身体を、正常に保っていくのだと思いました・・。
次回の稽古に楽しみが膨らみます・・。
 
2006年8月13日
剣の新たな型が生まれました。
雪流、と、速風、です。
これは相手が正面のみに対してではなく、複数相手、そして攻撃してくる方向を、いくつかのパターンで想定して、作り上げた型です。
脚の運び、切れ、張り、などが、稽古されていると思います。
組太刀にも新たな展開が始まっています。
三、五、八、天、という、組太刀です。
組太刀の場合、相手が具体的に眼に見えますから、気持の集中がとても重要です、少しでも気を抜くと、怪我に繋がります。
だからこそ丁寧に稽古していく必要があります。
これら新しい型が生まれてから、私自身の意識も、自然と、気合いが入り、また一から稽古を見なおそうと考えています。
子供達の成長も早く、私の気合いが子供達にもうつって来ているようで、とても勉強になります。大人達より、集中力があるかもしれません。
この夏に気合の乗った稽古が出来れば、また新たな息吹が、生まれるかもしれません。
 
2006年4月5日
木曜の稽古が朝11時からになりました、4月からスポーツセンターもずいぶんと変わるみたいです。
朝からの稽古大変ですが、来てる方、ご了解下さい。
さて、最近の木曜会は、鍛錬から入ります、四股立ちグーパー1000回から始まり、四股立ち真っ向100回、前後立ち真っ向50回、四股立ち袈裟100回、
正座真っ向100回、正座袈裟200回、四股立ち5分、摺り足、これが準備稽古です。ここから本稽古に入るのです。
きついですが、その後の剣の振り、組太刀などは、余計な力が抜けて、扱いやすくなります。
居合の稽古では、抜刀、納刀、の正確な稽古、剣術としての振り、などが稽古されます。
最近では、会員の廣瀬さんなどは、ずいぶんと、振れてきた様に見えます、本人は首を傾げていますが、毎回見ているこちらとしては、進歩の跡が見えます。
地味な稽古を淡々とこなすのは、骨の折れることです、身体にきつい事など誰もしたくはありません。しかし、そのきつさの先に、確信に満ちた何かがあるから、稽古が出来るように思います。
そしてその基準とは、きつさに、爽快感が伴う事です、疲れるけど、すっきりする、そんな稽古が、この木曜会を支えているように思いました。
 
2006年4月1日
一つの事を腰を据えてやる。
最近では流行らない言葉でしょうか。
体技、一つをとっても、少しやっただけで、もう他に、眼が行くとか、・・・・
特に、身体で学ぶ事などは、一つの事を、覚えるまで、かなり時間がかかるのはあたり前です。一つの技ができていないのに、他に行ってなにができるのでしょう。
あれも、これも、が、身につかないということが分からないのでしょうか・・・・。
自分に対しての厳しさがない方に限って、あれやこれやの屁理屈が上手です。

さて、話はそんな事にとらわれている場合ではないのです。
稽古は、やはり、体を通す事が基本、動けない技を、出来ない身体を、知識で埋めたって、何の意味がありましょう。
出来ないから、一生懸命稽古するのです、また、その過程がおもしろいのです。
つくずく、動けてないなーと実感するこの頃です。
今日の稽古では、正中線の、体感と、自分の両手の、触れ、の感覚を稽古しました、自分自身に触れる手、が、ぎこちない、。それで、人を触れる事など出来ません。
力を抜く、あたり前のように言われてること、・・が、なかなか、感得できない。
自身に対しての厳しさが、本来の解放に繋がる気がしました。
 
2006年3月31日
最近の稽古。
素振りについて、普段やっている素振りに加え、正座での素振りが新たに始まりました。剣を振り上げるのに、肩甲骨を意識してやります。
脇腹も使い、刃筋をぶれないようにするのが大変です。この正座の振りを始めてから、心なしか、姿勢に勢いが出たように感じています。
さらに摺り足、この摺り足は、日に日に、変化しており、これがいいという、感覚、までは、まだたどり着いていないようです。体調がすぐれない時などは、摺り足をやると、ぶれがあり、摺り足が安定していると、とても体調もいいのです、上体がすっきりと抜けていて、下半身に充実感があるときは、正中線もきちっと、通っています。稽古の進行度が、技への集中はもちろんの事、身体の調律にむいています。正確さ、ここを大切に進めていこうと思っています。
 
2006年1月24日
久しぶりのオープンページ。いつもは剣士に思いを書いていてこちらに載せていませんでした。
今年の鏡開きの写真を載せます。これは、神様の前での奉納演武です。型は、脇斬り。とても綺麗に出来ています。稽古が進んでいると思います。私もうかうかしてられません。この動きは剣を軽く握り、相手の懐までを瞬時に移動する、運足、ができていないとなりません。
さて、鏡開きは滞りなく出来ました。場所が大島ですから、なかなか皆さんで行くというにも大変かもしれませんが、来年は大勢の方といってみたいと思いました。
今年はどのような道を歩むのか、知る由もありませんが、ただ、一瞬の稽古を真剣に集中はしていくつもりです、それが先に繋がる事を信じて。子供達も日々成長を続けています。
先の事など考えていません。それが、瞬間の集中力を生み出しているのでしょう。今動きでは大人を凌ぐ勢いです。
毎回の稽古、継続する事に、やはり、力は宿ると思います。
厳冬の今年、心と身体が試されています。身体を練り、意識を研ぎ澄まし、今を切り開いていきたいと思います。
 
2005年12月5日
集中とはリラックスの究極に位置するような気がします。ですが一つの事に気を込めて,物事にあたれば、やはり身体の緊張はあります。それでいいのではないでしょうか。
もんだいは,その後の身体の緩めかた,心の働きだと思います。私の場合,武術と気の解放を両方稽古しています。うまくバランスがとれていると思います。
何でもいいんです,集中したら,後は,遊びをしっかりヤルとか,自分がリラックスする事をやるといいのではないでしょうか。
集中で言えば,居合の稽古のときに,ものすごい緊張と集中がなされます。剣の鋭さの中に身を置き,なお,心が崩れないように稽古します,剣の刃の狭い,薄い,鋭さの中に自分が入ってくように,体を使います。なかなか,そこまでの稽古は,進まないのですが,その先に拓けた意識と言うか、身体を越えた,何かがあるように思うのです。すると,緊張を抜け,至福の,ゆるみと言うか,そのようなものが待っているのではと思っています。
ですから集中を超えたリラックスと言うのは,そこに到達するまでは大変ですが,そのプロセスは,とても面白いのではないでしょうか。(厳しいと言う事ですよ)
そう,身体の反応とはとても不思議で,楽しいものに思えてきたこの頃です。
 
2005年12月3日
真剣さについてもう少し。
集中する意識が真剣さをもたらすのでしょうか,・・そもそも真剣という言葉に深い意味がありそうなので,・・・・難しい話はやめときます、できないです。
集中すると後で身体が疲れます,それって,正しい集中なのでしょうか,おそらくリラックスしきっていて,力みもなく疲れないのが集中という事かもしれません。
そこまで行って,はじめて真剣さが生まれてくるのだと思います。・・ですから私はまだまだです。・・まだ疲れます。・・リラックスで集中。・・少し考えてみてください。・難しそうでしょ。

この前の稽古で突きの稽古をして思いました。かなりハードな突きをかわす事をやりましたが,男同士でやっていてもかなり熱くなります,それを女性の方の動きを見たときに,ス−ッと,よけていました。
あの軽やかさは,心に余裕がないと出来ないと思います。もちろん本人達はいっぱいいっぱいだと,思いますけど,でも男よりは,腹が据わってるのでしょうか。
その軽やかさが身につけばもっと楽に動けるのに,あせり,身体のおこり、などまだまだです。

居合の稽古は毎回ではありませんが土曜日にやってます。本当は毎回やったほうがいいと思いますけど,まだ稽古頻度がそれぞれにばらつきがあるため出来ないのが現実です。それでも他の稽古が活きているのか,上達頻度はさほど遅くはないと思います。これは他,例えば体術とか,杖,剣,が稽古として進んできたからでしょうか。・・それにしてももう少し居合の稽古はやってみたいです。
あの凛とした空気はたまらないものがあります。その瞬間全てを忘れています,その中だけしか存在しないような。
 
2005年11月27日
稽古での真剣さ,これは前にも書いてるかな、剣士のほうに書いたかもしれませんが。
稽古の後疲れが取れます,体調が悪かったけど,稽古をして抜けました,等,最近よく耳にします。以前の稽古だと,疲れましたね−と言う声が多かったんですが、最近は少し変わってきました。
内容が,質のほうに向いたのかもしれません。一回一回の稽古に真剣に取り組む方が増えたように思います。
子供達は,大人以上に真剣かもしれません。ちょこちょこ走り回ってたかと思うと,立ち合いの時は真剣な顔つきになっています。メリハリがあるんです。この真剣さというのが,身体を調律しているのかもしれません。だからこそ後で力が抜けて,深いリラックスをするんじゃないでしょうか。
稽古の内容に,遊び感覚の稽古があります。コインキャッチです。これはコインを一人がすっと落とすのを,相手が全身を使ってとるというゲームです。今まではボールでやっていたんですけど,だんだんみんな出来てきたから,コインにしたんです。そしたら,大人でもまだ取れる方は少ないのに,子供がいとも簡単にとってしまいました。前にやったときは,後1年くらいは取れないだろうなと思っていたんですが,・・・先生−取れたよー・・ン・まあ,まぐれでしょ,よかったね。じゃあ先生が落とすから取ってみて・・・子供・・うん・・真剣なまなざし・・やな予感、・・すっ・・子供・・ぱっ,とったよ−。・・・・とってしまった。
今度先生とってみて−。真っ直ぐな眼。キラキラ・・私・・・次の稽古行きまーす。・・・
子供の成長。早いです。先週まで出来なかった子が今日は出来てる。前に進むエネルギーが子供はすごい。そんな事に影響を受けてか,大人達の眼も変わってきています。
さて,最近感じてる事,子供の無邪気、そこが分かってくると,いや,思い出す事が出来ると,恐れは消え、前の敵すら消え、自由に日々を送る事が出来るんじゃないか。学びはそこ、ここにある。
これからの稽古が楽しくなってきました。
 
2005年10月18日
新クラス.女性護身会を先日スタッフとともに研究稽古をしました.女性のための護身ということで,さまざまな意見を聞いてこんな時はどうする,とか目線の事とかとてもいい感じの稽古が出来たと思います.武術会と違うところは何時どこでどのような事が起こるか分からないという想定で行います.夜道を歩いているとき,どちらがわを歩けばいいのか,後ろから人が来た時どこに眼を置けばいいのか,かなり実践的な内容になりました.武術会での型を稽古するのとは違いその場で対処しなければならないのです.ですから戦うことのみではなく,その場からどうしたら逃げる事が出来るかなど意識の使い方,いろいろな方向性の稽古ができそうです。

初心者クラスについて,新規会員のみの参加となります.内容は礼のし方,から始まり体術、の基本。力を抜く稽古を行います。
この新クラスが行われる事により私自身の稽古の見直しが出来る事と思っています。ですからほかの稽古会での技なども,ときには礼法を行ったり,護身の稽古をしたりという内容がおりこまれるかもしれません。

最近の稽古では稽古の進み具合が気になりました.私自身は力の抜けなどが少し進んだのだろうか.毎回の稽古でも進みは分からず3ヶ月に1度くらいは,少し動けるようになったかなーと思う程度で、1回でも怠けると身体は知ってるなーと思いました.人によっては連続して稽古に参加するとぐんっと上達する方もいるようです。N君などは武術の有段者だけあって何回か続けて来たときは動きに切れが生まれるようです。

身につけるという事は簡単な事ではなくじっくりと何度もやらなければ身にならないこともあります。2,3年で出来るわけもなく,継続の力は必ずあります.味が染み込むまでは時間がかかるものです.ましてや味が出るまでには更なる時間が必要になります.私たちは時間の中で生きています.その限られた時間の中でいかに有効に時間を使うかは各人の物事の思いにゆだねられます。
稽古をしていってそれが生活につながったり,会社での出来事とつながったり,解決に向いたり,稽古がさまざまな方向性に生きていくことがあったら,とても私にとってもやってる意味があるのだな−と思います.本会はただ相手を倒す事のみを考えてはいません.それよりも他が活きればいいのです.倒せないから,出来ないから,逃げでしょ,と思われても一向に構いません.身体を通して武の動きが波及すればそれでいいのです。
 
2005年9月1日
今年の夏はいつもより身体を動かしている。私自身体がきつかったりする事が多かったため、やりたい技もろくに出来ない日々が続いた。が今年は少し違う。自分でも身体に意識がしっかりとむくようになってきた。以前は意識が内向していて細かくなりすぎていたようだ。原点に返るときなのかもしれない。何かに頼る事が尊いような、そんな錯覚にとらわれていたのか。・・・意識を外側に持つ。今の私はここがキーポイント。ここに心がけるようにしてから姿勢がずいぶんと変わった。筋肉のつく場所も変わった。これからどのような変化が現れるのか。今はとにかく身体の変化、動きの質、心の働き、洞察力、客観性、などを感じつつ自分の進み具合を見つめている。
稽古が進むにつれ、見えなくなる動きもある。知らずうちに人に教えたくなるような心。自分の事は棚に上げ人のあらが目立ってしまう。こうなるとまず見えなくなっている。稽古はまず出来ない自分と向き合う事から始まる。出来てない、そこから稽古、自分の出来てない部分をどこまで正直に見られるかが肝心なところ。先は長い・・・
昨日近所の公園で8本剣を稽古していた、真っ向の素振りも何本か稽古をした。すると子供が近づいてきて、なにやってるの?と聞いてきたので剣術を稽古しているんだよといったら、僕は空手をやってると言う。ほう。何年生と聞くと二年生と3年生だと言う。空手の型やってと言うと恥ずかしがってやってくれなかった。すると、剣を貸してくれと言う。貸すとふざけながら、やあやあ、と振り出した。真っ向の構えを教えてあげたら素直にやってくれた。もう一人の子も僕もやると言い出し同じように真っ向の構えを教えた。何本か振ったら気がすんだのかじゃあね−、とかけて行った。あっという間の出来事。ものの5分くらいだろうか。しかしとても充実した瞬間だった。稽古とはこんな感じなのではと教えられた気持がした。引き際が実に鮮やか、じゃあねーと子供が言った時は、ちょうど出来たときだったからだ。本人達も満足したようにさっと姿を消した。こんな稽古が出来たらいいなー。
 
 
2005年8月26日
身体の声を聞くには。日常とは違う現象が身体に起こらないと声は聞こえない。例えば正座を長い時間するとか、素振りを何本もやるとか。今練体会では300本目指して振りぬきをしている。もちろん回数やったからどうという事ではない。しかしある程度やっていくと、ふと疲れから解放される瞬間がくる。その時は肩の力もすっと抜けて振りぬいたときに太刀が水平にぴたっとくる。毎回ではないが何度かそんな事があった。疲れたところからが勝負だとよく言う。そこから頑張っていくと抜けるのだ。その後の体術は身体が軽く受身もとりやすくなっている。これから考えている事は四股立ちを10分ぐらいやっていこうかなと思っている。かなり厳しいとは思うがそこを越えていかないと身体からの声はそうやすやす聞こえてはこない。もちろんこれは強要することではない。私の中の声である。それぞれの身体はそれぞれに声を持っている。

身意動放での気付き。稽古の始めは黙想から入る。気持を日常から離して集中するために。それはとても静かで心地よい緊張とともに稽古は始まる。
どなたかが武術は緊張するけれども身意動放は緊張しないといっていた。エッ・・なにを稽古しているのだろう。もう1度真剣さを見つめなおしてほしい。
戦いのないものの中にもきちっと緊張と弛緩が存在している。だからリラックスにつながっていく。もちろん武術にもつながっている。
最近気付いたことは礼がとてもやわらかくなってきた事、手を畳につく動作がとてもしなやかで美しい、浮き身がかかっているような感じで見ててとても気持いい。
身意動放では相手に触れる事を触れ手といってやわらかく相手に触れる技があります。やわらかいけども全体をとっている、そんな技です。その触れ方とまったく同じように礼のとき畳に触れるのです。お腹もやわらかく使わないと出来ません。礼一つとってもそれが技に見えないといけない。
礼はその都度行います人を変えるとき始めと終わり。みんな上手になってきている。うかうかしてはいられない。
 
 
2005年7月12日
純粋な身体、・・・それを手にいれるために稽古している、己の欲深い身体はなかなか軽く動かない。
真剣さ・・文字どおり命が懸かる事、稽古でどこまで真剣さを学べるのだろう、律する事の難しさ、軽々しい口、学ぶという事。
これらの事を完了できたとき、純粋な身体は目の前に現れるのか。
今日の稽古で、はっと我に返った気がした。それは道場訓の唱和のとき、号令者の後について唱和する声の情けなさ。
大人達が手本となって真剣に声を出さないでどうする、私は慌てた、声を出してっといっても声はでない。
初期の身体動作の稽古だったらその場で稽古は終わっている。
これは私の真剣さの怠惰が影響したのだ。
仮にも修行という言葉をつかっている者が恥ずかしい。
稽古の中で声を出す、あたりまえの事、それが出来ていない、子供たちに何が言える。
真剣さを稽古する、それは気合、声を出す。こんな事を書くと、なに気合入っちゃってるの?と言う人もいるかもしれない。
決して力む事ではなく、ここが出来ていないと、感じるとか、客観的に動きを見るとかは難しいのではないか。
真剣さと気合がどう結びつくかと言うと、・・・・これは私事の体験になってしまって主観になってしまうが。
・・・書く事をためらっている、やはりこの事は深くは書けないので、時期がきたら書くかもしれない。
簡単に言うと自分の身に危険が迫ったときに声を出す人は難を逃れられる可能性が高い。それは普段から訓練していれば、大丈夫というものでもない。深いところの気迫、魂迫、が出てこないとならない。

心構えを言うとなに精神論を言って・・・となる、そこが逃げになると・・はたしてそうだろうか、確かにそこだけにとらわれてしまうとそうなるかもしれない。しかしきちっとできない者が動きの御託を並べるほうがよほど逃げのように感じる。
むしろなにも言わず淡々と稽古に励む姿は遠目から見て澄んで見える。
出来る事はもちろん大切、出来ようと励む事ももちろん。が・・・しかしそこよりも礼がきちっとできる事、気合を真剣に出す事、静かに聞く事、あたりまえの稽古が、実は身技に通じる道なのかもしれない。

私が以前山岳行に行ってた時のこと、一人滝に打たれ上がってくると、ある行者のかたが、見させていただきましたよと、私に微笑みかけていた、何の事かと思うとお弟子さんが先生が今あなたが滝に打たれているところを見に行くといって見に行ったのですよ、エッ、まったくきづかなかった、気配がまったくなかったのだ、そのかたは85歳の老齢にもかかわらずすさまじい気合で滝に入っていた。
65年も行を続けているといっていた、ぜんぜん偉ぶらず腰の低い先生だった。
またあるときは滝から上がってきて休憩をとっていたら、今あなたの気合を聞かせていただきました。というかたがまたこられた。
その方はあるところで神官を勤めているという。今日は水の匂いに誘われてここまで来ましたと言っていた、そしたら私の声が聞こえたというのだ。
あなたのその気合、大事にしなさい、その気合が必ず切り拓いてくれますから、何かのときにその気合を思い出すといいでしょう、とおっしゃっていた。

ふと稽古のときにそんな事を思い出した、そうだ大切な事は何時までも大事にしなければと、つくづく感じた。
純粋な身体に・・近づこう・・・独り言でした。
 
 
2005年5月22日
はてさてホームページを作る事になり毎回何かを書かなければならなくなってどうなっていくのだろう。
普通はたいした事ではないのだろうけど、内側のみと対話をしていた私にとっては大変な事なのだ。
身体の内側と話ばかりしていた私がその声を外に発信していく事は何か意味があるのだろうか?わけのわからぬことばかり書く可能性大。・・・稽古を通して考える事がある。
人は前に向かっている・常に何かに向かっている・・方向性はさまざまだが・いろいろな事を抱えて何かに向かうしかないのか・・.一生懸命身体を使いスムーズな道を求めている。
武術の技もそうなのかもしれない。戦いたいわけではない、ぶつかりたくないんだ。力と力、ぶつかったら技ではなくなる。私は技を思いつくときは川を見たり、風を見たり、木を見たりしているときにふと思いつく事がある。
硬いものはやわらかく包み、水の動きに習い、風の動きに任せます。
風といえばこんなことがあった。
あるとき何かにつきうごかされたのか・・・夜・山に行きたくなり9時ごろから一人で登り始めた。外灯もない獣道に入りなぜかその時はロウソクを持っていった・今考えれば懐中電灯を持っていったらよかったのにと、(今だったら絶対に懐中電灯を持っていきます)ロウソクの明かりは先のほうまでは届かず自分の周りだけが明るく照らされていた。
風の音がごおごおと鳴り響き木々の音もがさがさと鳴る、日中に聞く音は身体にも心地良いが夜漆黒の中で聞く音はなんとも怖い感じがした。どこを歩いているのかさっぱり分からず・何とか外灯のある参道を目指そうと思い歩き始めた、するとなんとなく道が分かるようになりようやく参道にたどり着いた。手を見るとロウソクの蝋が手の甲にがぴがぴに垂れて固まっていた。
自然と一体になる。なんと難しい事か、一体どころか早くその場から逃れようと必死ではないか。しかしあの時恐怖を覚えず風が心地いいと感じ闇と一体だったら、果たして参道にたどり着くのはもう少し時間がかかったかもしれない。
必死になって身体の感覚が道を探しロウソクの蝋の熱さを感じないほど身体は一つの方向を目指したのではないか。これはもう一度だな・・と自分に言い聞かせて山を下りた。何日かしてもう一度山に入った、もちろん夜。持ち物ロウソク、今回は直足袋も履いた。さて、風が鳴り木々は揺れ恐怖が身体を包む、今回は自然との一体を意識した。風の音を積極的に聞き呼吸も調えた。
さて道だ・・わからん・・手に垂れるロウソク・・・あつッ・・結局前回より20分ほど時間がかかってしまった。自然と一体になるということは心地よさだけではないのではないか、自然の怖さやそれを身体の内側に感じることも自然と一つになるということなのではないか。落着き払ってしまうこと、それは感覚を鈍くするのかもしれない。古武術では居着きを消す事を稽古する。
居着くとはその場から離れがたしということ。武術とは命のやり取りの場、落ち着いてその場にいたら危険なのだ、・・そのような事を昔は侍達が言っていたようだ。胆力を鍛えた侍達が、そこにいて、いない体を作れと。・・・・感覚を鈍くして恐怖を克服するのではなく、怖さを受け入れて感覚を拓いて、より強さが増すのかもしれない。身体はさまざまな事を考えさせてくれる、そして体験させてくれる。
ここに書いたことはあくまで主観で、体験した事なので、感じ方考え方はそれぞれだと思います。それと夜の山は危険です。
絶対に一人で行ったりしないでください、もちろん獣道などもっての外です。
一人じゃなくても行かないでください、厳禁。
次回また身体で感じたこと気付いたことを書きたいと思います。
 
 
 
 

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